誠心誠意

家族を守る家を100年もたせる

誠心誠意

100年企業を目指して

池田邦雄と池田義徳

 

誠心誠意
池田邦雄、という男。

誰よりも、早く

昭和17年、学校を卒業した彼は、当時の日本少年の全てがそうであったように、昭和20年8月まで軍需工場でお国のために汗を流しました。そして迎えた8月15日。軍需工場は終戦と共に姿を消し、日本がこれからどう変わっていくのか、誰も想像することなどできなかった8月の末、松原は三宅の岡本工務店での大工見習いという就労の朗報が彼にもたらされました。就職・就労とは言え、「徒弟制度」が当たり前の時代のこと、給金は大工技術を教えてもらうこととの相殺で食べるだけがやっとできるかなぁという条件でありました。それでも彼は嬉しかった。周囲の自分と同じような若者たちが未だ進路が定まらず、悩み苦しむ姿に比べ感謝こそすれ、何の迷いもなかったのでしょう。

「決めた。これこそが天職と考えることにした。」後はただ一生懸命、岡本芳蔵親方に師事していくのみでした。

自宅を暗い内に発ち、誰よりも早く出勤。肩に食い込む大工道具を担ぐのに骨を折り、氷を割って工具を研ぐ手は、ヒビ割れに霜焼けが重ね合わさりました。新米の大工見習いは周辺作業を率先してやらなければなりません。道具類の後片付けは勿論、掃除をし、炭火の始末をし、帰りは誰よりも一番アトでした。

それでもつらいと思ったことが一度もなかったのは、一人そっと抱きしめる信念が彼にはあったから。「早く、誰よりも早く、一人前になろう。その実現に“月間50日労働”を目標に頑張って行こう。」

久遠の船出を決意した、池田邦雄

▲「月間50日間労働」を目標に、久遠の船出を決意した、池田邦雄(左)

 

池田邦の原点

そんな彼を、不足の出来事が襲います。岡本芳蔵親方が思いも掛けぬ発病で急逝したのです。出会いから僅か2年数ヶ月。これから本格的に大工としての技術を教えていただこうとしていた矢先のことでした。親方の葬儀を無事終えた薫風の4月、彼は関係者の励ましを背に「独立の道」を歩み始めることとなりました。技術習得もその緒についたばかり、確たるお得意先があった訳でもなく、資金など皆無に等しい状態。ただあったのは、亡き親方から教えられた「信用第一」の精神と、やる気と、若さ、ただそれのみだったのです。こうして戦後まもなく、名ばかりの「池田工務店」丸は、船長たった一人を乗せ、久遠の船出をしたのです。

幸い仕事が趣味でした。亡き親方によって手先の器用さを開発して戴きました。考えを巡らせる想像のトキが好きでした。人情味が溢れ、人間性豊かなそんな建築物が好きでした。そんな考え方が近隣の喜びにつながっていったのだと思います。結果、周囲の不安をよそに昭和28年10月、池田工務店の本店を構えることとなりました。たった一人の船出から僅か5年半。文字通り少壮実業家の仲間入りを果たしても、彼は何ひとつ変わることはありませんでした。今まで通りの姿で現場の第一線に立ち、「月間50日間労働」の旗印も変えることなく―。

これが池田邦工務店、創業の生い立ちです。地元を第一に考える企業でありたい。信用第一の企業でありたい。働く人々の心を大切にしていきたい。池田邦雄の誠心誠意の生き様は、池田邦工務店の誇りであり、決して忘れてはならない原点です。

池田邦の原点

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